2025年
1月
30日
木
もう一月も終わりになりそうです。小川町の店を閉めてから既に二か月が過ぎようとしている訳です。そして新しい店というか「あふたーゆ」としての居場所は吉見町になります。今までのように店舗といった感じではなくて古民家の一画を借りて今まで集めた郷土文学の本を中心に資料室として見られるようにします。本棚と読書室を設けてゆっくりと本を読めるようになります。ぜひご利用ください。古本屋としては今まで通りに営業するつもりですので本の買い取りなどもやっています。場所が少し不便な所になりますが時間のある時にでもお出かけ下さい。
2025年
1月
17日
金
今年も既に今頃になってしまいました。昨年は入院して手術と大変な年となってしまいました。合わせて小川町でやっと慣れてきたと思ったら閉店となり後半は慌ただしい日々でした。さて今年は吉見町で新たに私設図書室などを設けて再度やってみたいと思います。準備は進んでいるので2月にはオープンできると思います。是非ご利用ください。
2024年
12月
25日
水
いよいよ今年も年末になりました。今月は小川町の店を閉店して後片付けをしていました。ここで3年ほど営業していたのですがそれなりの荷物が増えていて始末するのも結構大変でした。結局本は同業者に引き取って貰って本棚などの備品は全て処分しました。それでも色々な残務処理で時間がかかりました。今週の頭でやっと家の鍵を返してすべてが終わりました。そして来年からは現在住んでいる吉見町で空き家だった家を改修している所の一画をお借りして本を並べたいと思います。一部は私設の郷土書籍の図書館のようにしたいと思っています。古本屋はそのまま継続して幾つかの別の方法を考えていきます。家の改修は現在も続いており1月中は準備になると思います。また趣味的に借りていた畑も同じ所に移して畑仕事をしながら古本屋をするような感じになります。何とか軌道に乗ればいいのですがもう少しお待ちください。
2024年
9月
15日
日
私の読書遍歴は極めて偏っている。10代の時から面白いと思った作家の本は集中的に読んで、それ以外の作家の本はほとんど読んでいない。その読んだ作家も芥川龍之介、大江健三郎、庄司薫位である。最近は文学賞などを受賞した作品など色々な本を読んだり、気になった作家の本を読んだりとかなり雑多な読書になってきたが、それでもその範囲はかなり狭いと思う。昔の事や小さい頃の事はもうすでに忘れてしまっているので読んだような気がする程度の記憶が残っているだけだ。そんな記憶の中に何人かの作家の名が浮かんでくる程度だ。
そして内田百閒だが、全く読んだことが無かった。店のお客さんから教えられてどんな作品があるのかを知った位なのである。店の本棚には「冥土」という作品集があったが読んでいなかった。その本の内容について聞かれたことがあったので時間のあった時に読んでみた。冒頭にあったのが「昇天」という作品だった。これが面白かったのだ。そこから他の作品もいくつか読んでみたがそれほど面白いとは思わずそこまでで終わってしまった。
「昇天」だが、実に不思議な作品である。他の作品も読んでみたがどれも随筆風の短編で小説にはなっていないような印象がある。しかし「昇天」はきちんとした小説に仕立てあげられている。この登場人物のエピソードは他の作品にも出てくるのである。そこからはこの作品に対する思い入れを感じる。作品の登場人物は「おれい」という芸娘である。それ以外の名前は作者である「私」も含めて出て来ない。色々な評論家が調べているのを読むと実在の人物が多いという事がわかった。実際にそのような施設もあったという。そんなことも原因なのだろうか、そんな必要が無かったようにも思える。
「私」は百閒である。そしてその「私」が贔屓にしている芸娘であり、過去には同棲していたとなっているので普通の関係ではない。また別の作品では身内の子であるとも書かれている。そこでは妻として住んでいた「こい」の末の妹とも書かれている。実際の関係は別として、作品としての登場人物で書かれている訳である。しかし芸娘であり、結核で入院しているという境遇は同じである。そのことからもこの辺は事実としてあったのだろう。その辺がこの作品を複雑にしている要因かも知れないが、他の作品と比較しても「昇天」だけが小説として完成していると思う。
冒頭は「私」が病院に「おれい」を見舞いに行く所から始まる。その様子が描かれているのだがやはり妖しい雰囲気が醸し出されていく。重要なのは二人の会話である。当初一般の病院ではなくキリスト教の病院であることへの不安が「おれい」から語られる。「私」も見舞いに行った印象から不気味な印象を受けたように書かれている。しかし、次からは「おれい」から語られるエピソードからかキリスト教に対する見方が変わってくる。そして、次第に「おれい」の病状が悪くなっていくにつれて神に対する信仰心が芽生えてくる。「私」の言葉も彼女に対する同情から愛情へと変わっていく。当然のように信仰も大事だとようになっていく。
登場人物は少なく、病院長、副院長、下男のような人物などが重要な発言をしていく。いよいよ最後になって、「おれい」がある日ベッドに立ち上がり歩き出そうとして転倒したことが下男によって「私」に語られる。まさにその光景は、そのまま天に昇る不気味なイメージとして想像できるのである。病に罹って死にそうな娘が、ベッドの上で手を組んで昇天するという図である。実際にはベッドから落ちて、やがて死も近づいてくるところで作品は終わっているのだが、百閒のこの主人公「おれい」に対する愛情は何か深い特別なものが有った様な気がする。
この作品を読んで印象的だったのは二人の会話である。「おれい」の「私」に対する安心感、「おれい」に対する「私」の愛情が会話を通じて伝わってくる。不気味な作風、ユーモア混じり文章に伝えられる百閒ではない力量が感じられるのである。それは「おれい」に対する本物の愛情から書かれている故ではないかと思えるのである。