2017年
8月
25日
金
お盆に帰省した折に帰りの車中でふと見覚えのある景色に出会った。自分が住んでいた街なので見覚えがあるのは当然なのだが一軒の本屋が気になったのである。帰宅してから調べてみたら昔通っていた貸本屋の場所にその本屋はあったような気がするのだ。気になるので翌週またそこに行ってみた。暑いのに今は暇だからそんなことが出来る。
店の前に立つと確かにそこは本屋である。入ってみると確かに本は置いてあるが数も少なく所謂書店の体はなく古本屋のようでもある。少ない本が棚に面陳列で並べてあり、新刊もあるが古本もある。声を掛けると出てきたのは年配の婦人である。聞くと確かに昔は貸本屋もやっていた時期があると言うことだった。しばらく話をさせてもらっているとだんだんと記憶が戻ってきた。やはり自分が通っていた店で間違いないようだった。そうするとその婦人は当時店番をしていた人そのものだということもわかった。何と50年ぶりの再会である。
地方の小さな本屋は今では全く商売としては成り立たなくても、所謂街の本屋としての誇りを持って続けているという自負が言葉の中からわかった。かなりの年配なので働けるうちは続けていくのだろうと思う。皆さん懐かしがって本を買ってくれるということだった。ちょうど自分が欲しい本があったので何冊かの本を買ってきた。
昔自分が通っていた頃は貸本屋としてはすでに衰退期に入っており、本を借りる人も少なく最後の方では貸本を譲ってもらった記憶がある。そんなことで何冊かの貸本を持っていたのだ。聞くとそれらは皆さんにあげたり処分してしまったそうである。今のネット販売のことも色々聞いているそうだが、そんなことは別に本屋として続けていく強い意志が感じられた。懐かしさと感動の夏の思い出となった。
2017年
8月
18日
金
以前読んだ本を書いた人の違う本を読んでみた。読んでいて文章の上手い人だと言う印象があったが共同通信の記者の人だとわかった。時間がかかったが内容も良かったし、他の作品も読んでみたいなと思っていたのだ。そこで調べたらあまり著作はなく村上春樹の評論を出していることがわかったが、実は村上春樹の本は一冊しか読んでいない。それも他人から貰った本で自分からはあまり読みたいとは思っていなかった。貰ったので読んでみたが読後も強い印象は残っていない。しかし読みたいと思う人が取り上げているのだから今度はまた印象も違うだろうと思う。著者と村上春樹と同年齢だと言うことである。と言うことは自分ともほぼ同じである。共通する時代を生きてきたことで内容的には理解が進む場面もある。ほとんど村上作品を読んだことがなかったが、帯文に書かれている「こういう人だったんだ」ということは再認識することが出来た。
タイトルに空想読解と書かれているように本当にそうなのかと言う想いもしたが、それは筆者が後書でことわっているように自分なりの解釈であるということである。でも改めて村上春樹とはこういう人だったのかということが理解できた。そういえば何故ノーベル賞にノミネートされるのかよく知らなかったがそういうことだった。いくつかの作品を取り上げてそれぞれの関連性から持論を展開していく、あるいは他の賞を受賞した時のスピーチ内容から分析していく、本の装丁、作品の朗読などからの分析、村上春樹の色へのこだわりなど、色々な角度から論じられていく。すると原発政策や効率的社会を批判する拘りの文学者が見えてくる。そして作品を通して読者にその答えを迫ってくると言う構造を説いているのだ。知らなかったが改めて本を読んでみようかという所まではいかなかった。作品も結構出ているし読み切れないような気がする。
この筆者の文章は今回も上手いなと言う印象を持った。本人も言っているように内容はわかり易く書かれている。子供にやさしく説明するように論じていくのだ。もったいぶった書き方はなく結論を先に示して解説していく。独自の見方ではあっても納得させられてしまう。前に読んだ本は何回も同じ所を読んだ記憶があるが、自分にとって何が面白いのかというと筆者のしつこい位の理屈っぽい文章が良いのだろうと言うことである。要するに自分はそんな文章が好きなのだ。「空想読解なるほど村上春樹」小山鉄郎(共同通信社)
2017年
8月
10日
木
地域の中で自分の定年後をどう創っていくのかは結構難しい問題である。仕事をしないでいるとやることが無くなってしまう。趣味を多く抱えている人は忙しいだけだし、実はお金もかかる。何もない人は家にいても邪魔にされていく所も無いという状態になってしまう。図書館や地域の老人福祉センターには日々そんな人達が集まっている。私も誘われているが人見知りが激しいので難しいのではないかと遠慮している。
定年も無かった自分は早くからアルバイト生活になっていたのでそのままずっと同じような生活が続いていた。退職と同時に小さな家を買ってそこに引越しをした。今周辺の人達と月に一回の例会を持ち色々な問題を話し合う機会を作っている。その中から出てくるのは何か地域の中で役に立てたらいいと言うことである。それぞれあれがやりたいこれがやりたいという思いは持っていてもなかなか実際に動き出すことはない。結局誰かが始めればそこに参加しても良いという程度のことなのかもしれない。
なかなか本題に入らないのに又余談だが、子供の頃に家では酪農を営んでいた。朝早くから多くの乳牛が搾乳を求めて鳴き始めるので暗いうちから親は起きだしていた。大変な労働だと思う。そして牛には音楽が効果的だと言ってラジオを大きな音量で流していたのだ。私がまだ寝ている時にスイッチを入れておき、試験放送からNHK放送開始のオルゴールが流れ始める。それを毎日聞いていた。先日思い立ってそのオルゴールをパソコンで調べたらまだFM放送で番組開始に使っていたのが分かって懐かしかった。そのままずっとラジオが流れていくのだが途中で教会の番組がありこれも毎日聞いていた。おかげですっかり洗脳されてしまい教会からパンフレットを送ってもらうようになってしまった。今でも実家には送られてくるようだ。でもその放送で流れていた言葉が自分の生き方に影響を与えているのを実感することがある。「暗いと不平を言うよりも進んで灯りを点けましょう」と言うようなものだったような気がするのだが。
2017年
8月
05日
土
合間に他の本を読みながらようやく読み終えた。文庫本なのに分量があり苦労した感じがある。ヒトラーがかなりの読書家だったというのは聞いていたが、本のことだけではなくその人柄や死ぬまでの経過が詳しく書かれている。毎日読書の時間を取り、多くの本を読みつづけた。ヒトラーだけではなく周辺の人物像も描かれて当時の時代が良く分かるように描かれている。それゆえにあまり読後感は良くない部分もある。多くの本は紛失(持ち去られて)しているようだが、それでも3000冊ほどが今でも保管されているということである。「ヒトラーの秘密図書館」ティモシー・ライバック(文春文庫)
2025年
1月
30日
木
もう一月も終わりになりそうです。小川町の店を閉めてから既に二か月が過ぎようとしている訳です。そして新しい店というか「あふたーゆ」としての居場所は吉見町になります。今までのように店舗といった感じではなくて古民家の一画を借りて今まで集めた郷土文学の本を中心に資料室として見られるようにします。本棚と読書室を設けてゆっくりと本を読めるようになります。ぜひご利用ください。古本屋としては今まで通りに営業するつもりですので本の買い取りなどもやっています。場所が少し不便な所になりますが時間のある時にでもお出かけ下さい。
2025年
1月
17日
金
今年も既に今頃になってしまいました。昨年は入院して手術と大変な年となってしまいました。合わせて小川町でやっと慣れてきたと思ったら閉店となり後半は慌ただしい日々でした。さて今年は吉見町で新たに私設図書室などを設けて再度やってみたいと思います。準備は進んでいるので2月にはオープンできると思います。是非ご利用ください。
2024年
12月
25日
水
いよいよ今年も年末になりました。今月は小川町の店を閉店して後片付けをしていました。ここで3年ほど営業していたのですがそれなりの荷物が増えていて始末するのも結構大変でした。結局本は同業者に引き取って貰って本棚などの備品は全て処分しました。それでも色々な残務処理で時間がかかりました。今週の頭でやっと家の鍵を返してすべてが終わりました。そして来年からは現在住んでいる吉見町で空き家だった家を改修している所の一画をお借りして本を並べたいと思います。一部は私設の郷土書籍の図書館のようにしたいと思っています。古本屋はそのまま継続して幾つかの別の方法を考えていきます。家の改修は現在も続いており1月中は準備になると思います。また趣味的に借りていた畑も同じ所に移して畑仕事をしながら古本屋をするような感じになります。何とか軌道に乗ればいいのですがもう少しお待ちください。
2024年
9月
15日
日
私の読書遍歴は極めて偏っている。10代の時から面白いと思った作家の本は集中的に読んで、それ以外の作家の本はほとんど読んでいない。その読んだ作家も芥川龍之介、大江健三郎、庄司薫位である。最近は文学賞などを受賞した作品など色々な本を読んだり、気になった作家の本を読んだりとかなり雑多な読書になってきたが、それでもその範囲はかなり狭いと思う。昔の事や小さい頃の事はもうすでに忘れてしまっているので読んだような気がする程度の記憶が残っているだけだ。そんな記憶の中に何人かの作家の名が浮かんでくる程度だ。
そして内田百閒だが、全く読んだことが無かった。店のお客さんから教えられてどんな作品があるのかを知った位なのである。店の本棚には「冥土」という作品集があったが読んでいなかった。その本の内容について聞かれたことがあったので時間のあった時に読んでみた。冒頭にあったのが「昇天」という作品だった。これが面白かったのだ。そこから他の作品もいくつか読んでみたがそれほど面白いとは思わずそこまでで終わってしまった。
「昇天」だが、実に不思議な作品である。他の作品も読んでみたがどれも随筆風の短編で小説にはなっていないような印象がある。しかし「昇天」はきちんとした小説に仕立てあげられている。この登場人物のエピソードは他の作品にも出てくるのである。そこからはこの作品に対する思い入れを感じる。作品の登場人物は「おれい」という芸娘である。それ以外の名前は作者である「私」も含めて出て来ない。色々な評論家が調べているのを読むと実在の人物が多いという事がわかった。実際にそのような施設もあったという。そんなことも原因なのだろうか、そんな必要が無かったようにも思える。
「私」は百閒である。そしてその「私」が贔屓にしている芸娘であり、過去には同棲していたとなっているので普通の関係ではない。また別の作品では身内の子であるとも書かれている。そこでは妻として住んでいた「こい」の末の妹とも書かれている。実際の関係は別として、作品としての登場人物で書かれている訳である。しかし芸娘であり、結核で入院しているという境遇は同じである。そのことからもこの辺は事実としてあったのだろう。その辺がこの作品を複雑にしている要因かも知れないが、他の作品と比較しても「昇天」だけが小説として完成していると思う。
冒頭は「私」が病院に「おれい」を見舞いに行く所から始まる。その様子が描かれているのだがやはり妖しい雰囲気が醸し出されていく。重要なのは二人の会話である。当初一般の病院ではなくキリスト教の病院であることへの不安が「おれい」から語られる。「私」も見舞いに行った印象から不気味な印象を受けたように書かれている。しかし、次からは「おれい」から語られるエピソードからかキリスト教に対する見方が変わってくる。そして、次第に「おれい」の病状が悪くなっていくにつれて神に対する信仰心が芽生えてくる。「私」の言葉も彼女に対する同情から愛情へと変わっていく。当然のように信仰も大事だとようになっていく。
登場人物は少なく、病院長、副院長、下男のような人物などが重要な発言をしていく。いよいよ最後になって、「おれい」がある日ベッドに立ち上がり歩き出そうとして転倒したことが下男によって「私」に語られる。まさにその光景は、そのまま天に昇る不気味なイメージとして想像できるのである。病に罹って死にそうな娘が、ベッドの上で手を組んで昇天するという図である。実際にはベッドから落ちて、やがて死も近づいてくるところで作品は終わっているのだが、百閒のこの主人公「おれい」に対する愛情は何か深い特別なものが有った様な気がする。
この作品を読んで印象的だったのは二人の会話である。「おれい」の「私」に対する安心感、「おれい」に対する「私」の愛情が会話を通じて伝わってくる。不気味な作風、ユーモア混じり文章に伝えられる百閒ではない力量が感じられるのである。それは「おれい」に対する本物の愛情から書かれている故ではないかと思えるのである。